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第六話 連絡という橋がない十年

Author: 海野雫
last update publish date: 2026-05-06 19:08:04

 マンションのドアを開けると、見慣れた部屋が目に入った。

 壁のスイッチを押して灯りをつける。寝室に向かい、鞄をデスクに置く。ジャケットを脱ぎ、ネクタイをゆるめながら洗面所へ行く。手を洗って、うがいをする。

 毎日、変わらない動作だった。同じ順番で、同じ時間に、同じ手順を繰り返している。十年前にはこんな生活を想像もしていなかったし、十年後も、たぶん、同じことを続けているのだろう、と紡は思う。

 会社へ行って、残業して、帰って、寝る。それだけが繰り返される、波のない日々。

 そこに今月、ふたつの大きなことがあった。仕事で大型のプロジェクトを任されたこと。十年間、会いたいと思いつづけてきた人に、再会したこと。

 ふたつとも、自分の人生の地図を書き換えるような出来事のはずだった。それなのに、家に帰り着いてしまえば、紡のリビングはいつもと同じ静けさを取り戻してしまう。誰かに語る相手がいるわけでもなく、報告できる家族と暮らしているわけでもない。出来事はすべて、紡のなかでだけ、起きたままになっている。

 重たい足を引きずって、リビングのソファに沈み込んだ。天井のシーリングライトを見上げる。同じ光のはずなのに、今日はやけに眩しく感じた。

 スマホを取り出して画面を開いた。

 有馬とのメッセージ画面。

 画面の上、有馬からの『ありがとう』の五文字が、依然として最後の発言のままそこにある。

 あの夜は、夢ではなかった。何度もそう疑ってしまった自分への、これは証拠だった。証拠は、画面のなかにある。それでも、紡はもう何日も同じ画面を開き直しては閉じている。開けば落ち着かなくなるのに、閉じると閉じるで、別の種類の落ち着かなさが訪れる。どちらに転んでも休まらない、という状態に、紡はもう慣れはじめていた。

 最後のやり取りから、もう一週間以上が過ぎていた。

 なにか一言、送ればいいだけなのに、指が動かない。

 胸の奥がざわついて落ち着かない。落ち着かないのに、それを止める術が、ない。

 ため息がもれた。

 どうして自分は、昔から、肝心の一歩が出ないのだろう。

 不甲斐なさに、もう一度ため息をついた。

 画面のなかの『ありがとう』の輪郭が、ふいに、にじんだ。

 目の奥にこもった熱を、紡はぎゅっと目を閉じてやり過ごした。閉じた瞼の裏に、あの夜のホームの有馬の顔が浮かんでは消えていく。

 また、会いたい。

 偶然でもいいから、ともう一度、あの偶然を待ちたい。

 そう思ってしまった自分に気づいて、紡は短く息を吐いた。

 ソファから立ち上がり、もう一度、寝室に向かう。クローゼットの前で深呼吸をひとつしてから、扉を開けた。

 奥のほうに隠すように置かれた段ボール箱を、手前に引きだす。蓋の縁にうっすらと埃が積もっていた。長いあいだ、この箱を開けていなかった証拠だった。

 箱を開けると、なかには学生時代のアルバム、古い年賀状の束、卒業文集が入っていた。出してしまえば、ただの古い紙の束だ。なのに、十年のあいだ、紡はこの箱を一度も開けてこなかった。開けたら最後、片づかなくなることを、たぶん、自分の体が知っていた。

 高校の卒業アルバムを取り出して、ページをめくる。

 ぱらりと、挟まれていた一枚の写真がこぼれ落ちた。

 卒業式の日。

 校門の脇に立てられた「卒業式」と書かれた立て看板の前で、紡と有馬が並んで写っている。紡はまっすぐカメラのレンズを見ていた。

 隣の有馬は、レンズを見ていなかった。

 顔は正面を向いているのに、目線だけが、紡のほうを向いていた。

 あのときは、気づかなかった。

 あのときだけではなく、紡は十年間、有馬の視線が自分のほうを向いていたかもしれない可能性に気づかないでいた。あるいは、気づかないことに、している。

 なにを考えて、こちらを見ていたのだろう。

 答えは出ない。十年経っても、出ない。

 高校卒業後、有馬は父親の転勤に伴ってアメリカへ渡った。進路希望調査では、紡と同じく東京の大学を書いていたはずだった。有馬が大学受験を実際に受けたのか、そもそも受けなかったのか、紡は知らなかった。卒業前のあのころは、有馬がほとんど学校に来なくなっていて、確認するすべがなかった。

 卒業式の日、駅前で「じゃあな」と片手をあげて別れた、あの一瞬が、十年前の最後の場面だった。あの「じゃあな」が、卒業生同士の別れの「じゃあな」だったのか、それとも、もっと長い別れを告げる「じゃあな」だったのか。当時の紡には判別がつかなかった。判別がつかないまま、紡は手を振り返した。手を振り返すしかなかった。

 気づいたときには、有馬はもう日本を発っていた。

 すぐにその番号にかけてみた。何度かけても、同じ機械の声が返ってきた。「おかけになった電話番号は現在使われておりません」。録音された平坦な女性の声が、なぜか妙に紡の耳に残った。当時の有馬がやっていたSNSのアカウントも、検索しても出てこなかった。すべて閉じられたあとだった。

 それから半年ほど、紡は共通の友人をひとりずつたどった。

「なあ、有馬の連絡先、知らない?」

「ん? 卒業してからは取ってないな」

「アメリカに行ったんだろ? でも、詳しくは知らない」

「悪い、わからん」

 誰に訊いても、返ってくるのは同じような言葉だった。誰ひとり、悪意で隠しているわけではないことは、訊けばすぐにわかった。本当に、誰も、有馬の新しい連絡先を持っていないのだった。

 半年、必死に探した。見つからなかった。

 ある夜、紡は気づいてしまった。

 たぶん、有馬は紡から離れたくて、関係を断ったのではないか。

 もしかしたら、紡の気持ちが、なにかの拍子で有馬に伝わってしまって、気持ち悪いと思われたのではないか。

 そう考えてしまった瞬間、背筋に冷たいものが走った。

 もう、やめよう。これ以上探して見つけたところで、有馬は今度はもっと遠くへ逃げる。十七歳の自分でもわかるくらい、有馬の意思ははっきりしている。

 海外に出るためだけに番号を変えたのなら、誰かには新しい連絡先を伝えていてもおかしくない。誰にも残さなかった、ということは、「探すな」と無言で告げているのと同じことだった。

 もう、これ以上、嫌われたくない。

 探されたくない、と思われている理由を、これ以上、自分のなかで明確にしたくなかった。明確にしたら、自分が自分を嫌いになる。

 だから紡は、探すのを、やめた。

 やめたと、言い切れるわけではなかった。何度も、検索エンジンに有馬の名前を打ち込みかけて、最後の文字を打つ前に消した。共通の友人の連絡先は、消さずに残しておいた。いつか、誰かが偶然、有馬の話題を口にすることがあるかもしれない、という小さな期待を、紡は手放しきれなかった。手放さないこと自体が、半分くらい、未練を残しているのと同じだった。

 その未練を、紡は十年、抱えてきた。誰にも見せず、誰にも明け渡さず、ただ自分のなかにだけ、押し込めてきた。

 一年ほど前、その未練が、ほんの一瞬だけ、形を変えたことがあった。検索エンジンに有馬の名前を打ち込んだ深夜、一度だけ、結果を消さずに最後まで開いてみた、その夜のこと。あの夜から先のことを、紡はまだ、自分のなかでもうまく整理できていなかった。整理できていないまま、十月のあの駅のホームへとつながっていた。

 その続きを、いま、考える気力は、なかった。考えはじめたら、また眠れなくなる。

 あれから、十年が経った。

 大学を出て、東京で就職した。その間に紡は、いくつか恋愛のかたちを試してみた。男性とも、女性とも。試した、というより、試さずにはいられなかった、というほうが近かった。あの夕焼けの下校路を歩いていたころ、紡は自分のなかにあるものの輪郭をすでにわかっていた。けれど、わかっていたものを「ほかの可能性で塗り替えられないか」と、どこかでまだ、信じたかったのかもしれない。

 結論は、変わらなかった。

 紡が愛せるのは、男性だった。それも、たぶん、ひとりだけだった。

 恋人を作っても、長くは続かなかった。理由は、紡自身がいちばんよく知っていた。心の片隅に、いつも、有馬の存在があったからだった。そばにいる人を見ているはずなのに、視線の焦点だけが、ほんのわずかに、その人より遠いところに合っている。それを、気づかない恋人もいたし、気づいて静かに離れていった恋人もいた。後者のほうが、紡には、こたえた。

 別れるたびに、有馬のことを思い出した。

 誰にも、話さなかった。

 話さなかった、というより、話せなかった。話したら、自分が高校時代の夕焼けの交差点から、一歩も動けていないことを、自分の口で認めることになる。それは、まだ、こわかった。

 高校時代の片想いを引きずったまま二十七歳まで来てしまった、という事実は、紡のなかでは、誰にも見せたくない種類の事実だった。誰かに話せば軽くなるのかもしれない、と思ったことも、なくはなかった。それでも、話さないことを選んできた。話して軽くなるかどうかわからないものを抱えつづけるほうが、まだ、安全な気がしていた。

 紡は、卒業式の写真の表面を、指の腹でそっとなぞった。

 十年前の有馬の目線が、紙のなかで、変わらず紡のほうを向いていた。

 紡は写真を卒業アルバムに挟み戻し、アルバムを段ボールに戻した。蓋を閉める手が、ほんの少しだけ、迷った。捨てる、という選択肢が、頭の片隅をよぎった。すぐに打ち消した。

 あの夜、ホームのベンチで再会した有馬が、十年前に連絡を絶ったあの有馬と、同じ人間なのだ。

 そう思うと、胸の奥が、かすかに、軋んだ。

 スマホの画面を、もう一度、確認した。

 通知は、ない。

 十年分の沈黙の重みが、ゆっくりと、紡の胸の上に降りてきた。

 あの夜の再会に、どんな意味があったのか。

 紡には、まだ、わからなかった。

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